量子コンピュータが世界的に注目されるきっかけとなったのが、1994年にピーター・ショアが発表した素因数分解アルゴリズムです。 今回は、このアルゴリズムがどのようにして「古典コンピュータで宇宙の年齢以上かかる計算」を数時間で終わらせるのか、その数学的トリックを解明します。
1. ターゲット:RSA暗号
現代のインターネット通信(HTTPS)の安全性を支えているのが RSA暗号 です。
RSAの安全性
RSAの安全性は、「巨大な整数 を素因数分解する( となる素数 を見つける)のは極めて困難」という仮定に基づいています。
- 公開鍵:
- 秘密鍵: と から計算される値
もし を高速に分解できれば、秘密鍵が復元され、暗号は解読されてしまいます。
2. アルゴリズムの構造:問題を変換する
ショアのアルゴリズムの核心は、素因数分解を 位数発見問題(Order Finding Problem) に変換することにあります。
ステップ1:古典的な前処理
素因数分解したい整数を とします。 ランダムに なる整数 を選びます(ただし )。
このとき、 を満たす最小の正の整数 を 位数(周期) と呼びます。
なぜ位数が重要か?
もし偶数の位数 が見つかれば、 となります。これは、 が と共通因数を持つ可能性が高いことを意味します。 実際、 を計算(ユークリッドの互除法で高速に可能)することで、 の素因数 が求まります。
つまり、「 の周期 を見つける」 ことができれば、素因数分解は解けたも同然なのです。
3. 量子フーリエ変換(QFT)
この「周期 」を見つける部分を、量子コンピュータが担います。 ここで使われる道具が 量子フーリエ変換(Quantum Fourier Transform: QFT) です。
定義
基底状態 () に対するQFTは以下のユニタリ変換として定義されます。
ここで は1の原始 乗根です。 これを行列で書くと、ヴァンデルモンド行列になります。
周期の抽出
古典的な離散フーリエ変換(DFT)と同様、QFTも「信号に含まれる周波数成分(周期性)」を抽出します。 違いは計算速度です。
- 高速フーリエ変換(FFT):
- 量子フーリエ変換(QFT):
データ数 に対して、指数関数的な高速化 が実現されています。
4. ショアのアルゴリズムの全貌
量子回路の流れ
-
重ね合わせの準備: 第1レジスタを全状態の重ね合わせにする。
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モジュロ指数演算(オラクル): 関数 を計算し、第2レジスタに格納(エンタングルさせる)。
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第2レジスタの測定: 測定値 を得たとします。すると第1レジスタは、 となるような だけの重ね合わせになります。これらは周期 で並んでいます。 ※ 実際には測定しなくても、第1レジスタの密度行列は周期的混合状態になります。
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逆QFTの適用: 第1レジスタに を適用します。 周期的な状態(くし型関数)をフーリエ変換すると、逆数(周波数)にピークを持つ状態になります。 つまり、 に相当する状態が高い確率で観測されます。
-
連分数展開: 測定結果から、連分数展開という古典的な数学手法を用いて、周期 を推定します。
5. 実用化への最大の壁:エラー訂正
理論上は完璧なショアのアルゴリズムですが、実際にRSA-2048(2048ビットの整数)を分解するには、まだ長い道のりがあります。
論理量子ビット vs 物理量子ビット
現在の量子コンピュータ(NISQ)はエラーが多すぎます。 ショアのアルゴリズムのように深い(ステップ数の多い)回路を実行するには、エラーを訂正しながら計算する必要があります。
- 物理量子ビット: 実際のハードウェア上の素子(エラー率が高い)。
- 論理量子ビット: 多数の物理量子ビットを組み合わせて、エラーを訂正した理想的な1ビット。
RSA-2048を分解するには、約 4,000個の論理量子ビット が必要と見積もられています。 これを実現するには、現在の技術レベル(エラー率)では、数百万〜数千万個の物理量子ビット が必要です。 (現在の最先端は数百〜1000物理量子ビット程度)
まとめ:未来への展望
ショアのアルゴリズムは、量子コンピュータが特定の数学的問題に対して圧倒的なパワーを持つことを証明しました。 現在、世界中の研究者が「誤り耐性型汎用量子コンピュータ(FTQC)」の実現に向けて、ハードウェアのスケールアップとエラー訂正技術の開発にしのぎを削っています。
私たちが生きている間に、この技術が完成し、暗号技術のパラダイムシフトが起こる可能性は十分にあります。その時、この数式の意味を理解していることは、新しい時代を生きるための大きな力となるでしょう。
[完] 量子コンピューティング入門シリーズ
これにて全6回の入門シリーズは完結です。 さらに深く学びたい方は、線形代数の教科書を片手に、以下の専門書に挑戦してみてください。
参考資料
- IBM Quantum Roadmap: https://www.ibm.com/quantum/roadmap
- Google AI Quantum: https://quantumai.google/
- NIST Post-Quantum Cryptography: https://csrc.nist.gov/projects/post-quantum-cryptography
- 量子技術イノベーション戦略(内閣府)
更新履歴
| 更新日 | 内容 |
|---|---|
| 2025-12-22 | 初版公開 |
ご注意: 本記事は2025年12月時点の情報に基づいています。最新情報は公式サイトをご確認ください。
