1. 多量子ビット系の記述:テンソル積
2つの系 A と B を合成した系(全体)の状態空間は、個々のベクトル空間の テンソル積(Tensor Product) で構成されます。
定義
系 A の基底を {|0>_A, |1>_A}、系 B の基底を {|0>_B, |1>_B} とすると、合成系の基底は以下の4つのベクトルの組み合わせになります。
∣00⟩=∣0⟩A⊗∣0⟩B=10∣01⟩=∣0⟩A⊗∣1⟩B=0100∣10⟩=∣1⟩A⊗∣0⟩B=0010∣11⟩=∣1⟩A⊗∣1⟩B=0001
次元の爆発
一般に n 個の量子ビットがある場合、その状態ベクトルは 2n 次元の複素ベクトルになります。
∣ψ⟩=∑x=02n−1cx∣x⟩
- n=1: 2次元
- n=2: 4次元
- n=10: 1024次元
- n=50: 約1,125兆次元
この指数関数的な次元の増大が、量子コンピュータが古典コンピュータではシミュレーション不可能な計算能力を持つ源泉の一つです。
2. エンタングルメントの数学的定義
2量子ビット系のすべての状態が、個々の量子ビットの状態の積(テンソル積)で書けるわけではありません。
分離可能状態(Separable State)
ある状態 ∣ψ⟩ が、以下のように個別の状態の積として書けるとき、その状態は 分離可能 であると言います。
∣ψ⟩=∣ψA⟩⊗∣ψB⟩
この場合、それぞれの量子ビットは独立した状態を持っています(相関がない)。
エンタングル状態(Entangled State)
分離可能 でない 状態、つまりどうしても積の形に因数分解できない状態を、エンタングル状態(量子もつれ状態) と呼びます。
∣ψ⟩=∣ψA⟩⊗∣ψB⟩
証明:ベル状態は因数分解できない
最も有名なエンタングル状態である「ベル状態」の一つを考えます。
∣Φ+⟩=21(∣00⟩+∣11⟩)
これが分離可能であると仮定して、矛盾を導きます。
仮に分離可能だとすると、ある α0,α1,β0,β1 が存在して以下のように書けるはずです。
(α0∣0⟩+α1∣1⟩)⊗(β0∣0⟩+β1∣1⟩)=α0β0∣00⟩+α0β1∣01⟩+α1β0∣10⟩+α1β1∣11⟩
これを ∣Φ+⟩ の係数と比較します。
- α0β0=21
- α0β1=0
- α1β0=0
- α1β1=21
式(2)より、α0=0 または β1=0 です。
- もし α0=0 なら、式(1)は 0=1/2 となり矛盾。
- もし β1=0 なら、式(4)は 0=1/2 となり矛盾。
したがって、ベル状態をテンソル積で表す解は存在しません。証明終了。
この事実は、「個々の粒子の状態は定義できず、全体系としての状態しか存在しない」ことを意味します。
3. エンタングルメントを作る:CNOTゲート
では、どうやってこの不思議な状態を作るのでしょうか?
これには2量子ビットゲートである CNOT(制御NOT)ゲート が必要です。
CNOTゲートの作用
CNOTゲートは、制御ビット(1ビット目)が ∣1⟩ のときだけ、標的ビット(2ビット目)を反転(Xゲート適用)させます。
CNOT=1000010000010010
ベル状態生成回路
以下の手順でベル状態 ∣Φ+⟩ を生成します。初期状態は ∣00⟩ です。
ステップ1:アダマールゲートを1ビット目に適用
(H⊗I)∣00⟩=(H∣0⟩)⊗∣0⟩=(2∣0⟩+∣1⟩)⊗∣0⟩=21(∣00⟩+∣10⟩)
この時点ではまだ分離可能状態です。
ステップ2:CNOTゲートを適用
CNOT(21(∣00⟩+∣10⟩))=21(CNOT∣00⟩+CNOT∣10⟩)
線形性により各項に作用します。
- ∣00⟩:制御ビットが0なので変化なし →∣00⟩
- ∣10⟩:制御ビットが1なので標的ビット反転 →∣11⟩
=21(∣00⟩+∣11⟩)=∣Φ+⟩
これでエンタングルメントが生成されました。
4. 量子もつれの物理的意味
測定の相関
生成された状態 ∣Φ+⟩ を測定してみましょう。
- 1ビット目を測定して 0 が出た場合:
状態は ∣00⟩ に収縮します。よって2ビット目は 必ず 0 です。
- 1ビット目を測定して 1 が出た場合:
状態は ∣11⟩ に収縮します。よって2ビット目は 必ず 1 です。
2つのビットは完全に相関しており、片方の測定結果がもう片方を即座に決定します。これは2つのビットがどれだけ離れていても(例えば銀河の彼方であっても)成立します。
まとめ
- テンソル積: 量子ビットが増えると、状態空間の次元は指数関数的に爆発する。
- エンタングルメント: 複数の量子ビットが強い相関を持ち、個別に記述できない状態。数学的には「因数分解できない状態」。
- 生成方法: 重ね合わせ(Hゲート)と相互作用(CNOTゲート)を組み合わせることで生成できる。
次回は、これらの原理を応用して、量子コンピュータがどのように計算を高速化するのか、その最初期の例である「ドイチュ・ジョサのアルゴリズム」を通じて解説します。
次へ:量子コンピュータ入門 #5:量子アルゴリズムの仕組み
参考資料
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ご注意: 本記事は2025年12月時点の情報に基づいています。最新情報は公式サイトをご確認ください。