量子コンピュータ入門 #2:情報のベクトル表現と量子ビット
サイエンス

量子コンピュータ入門 #2:情報のベクトル表現と量子ビット

前提知識: この記事は、線形代数と複素数の基礎知識を前提としています。不安な方は、先に 量子コンピュータ入門 #1:量子コンピュータのための数学基礎 をご一読ください。

「量子コンピュータは、0と1を同時に計算できるから速い」。 よく聞く説明ですが、これだけでは工学的な応用やアルゴリズムの理解には至りません。本シリーズでは、量子コンピュータを 「複素ベクトル空間上の情報の変換プロセス」 として厳密に定義し直します。

1. 情報をベクトルで表す

まず、古典的なコンピュータの最小単位である「ビット」を、線形代数の言葉で再定義してみましょう。

古典ビットのベクトル表現

古典ビットは 00 または 11 のいずれかの状態をとります。これを2次元ベクトル空間の基底ベクトルに対応させます。

00=(10)0 \leftrightarrow |0\rangle = \begin{pmatrix} 1 \\ 0 \end{pmatrix} 11=(01)1 \leftrightarrow |1\rangle = \begin{pmatrix} 0 \\ 1 \end{pmatrix}

古典的な計算機における「状態」は、この2つのベクトルの どちらか一方 に限られます。集合で書けば Sclassical={0,1}S_{classical} = \{ |0\rangle, |1\rangle \} です。

量子ビット(Qubit)の定義

量子ビット(Quantum Bit = Qubit)は、この制約を取り払います。 量子ビットの状態 ψ|\psi\rangle は、2次元複素ベクトル空間 C2\mathbb{C}^2 上の、長さ(ノルム)が1の任意のベクトル として定義されます。

ψ=α0+β1=(αβ)|\psi\rangle = \alpha |0\rangle + \beta |1\rangle = \begin{pmatrix} \alpha \\ \beta \end{pmatrix}

ここで、α,βC\alpha, \beta \in \mathbb{C}(複素数)であり、以下の正規化条件を満たします。

α2+β2=1|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1

この α,β\alpha, \beta確率振幅 と呼びます。 古典ビットが「北極点」と「南極点」の2点しか許されないのに対し、量子ビットは「地球の表面(球面)上のすべての点」を状態として取り得ます(ブロッホ球の概念。次回詳述します)。

2. 重ね合わせ状態の物理的意味

ψ=α0+β1|\psi\rangle = \alpha |0\rangle + \beta |1\rangle が表す「重ね合わせ(Superposition)」は、単なる「混合」とは異なります。

古典的な確率的ビットとの違い

コイン投げをして、まだ結果を見ていない状態を考えてみましょう。 表(0)が出る確率が50%、裏(1)が出る確率が50%だとします。この状態は確率分布として以下のように書けます。

P(0)=0.5,P(1)=0.5P(0) = 0.5, \quad P(1) = 0.5

しかし、量子的な重ね合わせ状態 ψ=120+121|\psi\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}|0\rangle + \frac{1}{\sqrt{2}}|1\rangle はこれとは本質的に異なります。 最も重要な違いは、係数 α,β\alpha, \beta複素数 であることです。

例えば、以下の2つの状態を考えます。

  1. +=12(0+1)|+\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle + |1\rangle)
  2. =12(01)|-\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle - |1\rangle)

どちらも測定すれば0と1が50%ずつの確率で出ますが、状態としては別物 です(内積をとると直交します:+=0\langle + | - \rangle = 0)。 この「符号(位相)の情報」を持っていることが、量子アルゴリズムにおいて 干渉(Interference) という現象を引き起こし、計算の高速化に寄与します。

3. 測定(Measurement):ボルンの規則

量子力学において、状態ベクトル ψ|\psi\rangle 自体を直接「見る」ことはできません。私たちができるのは「測定」だけです。

射影測定の公理

計算基底 {0,1}\{|0\rangle, |1\rangle\} で測定を行うと、結果は必ず 0011 のどちらかになります。 その確率は 確率振幅の絶対値の二乗 で与えられます(ボルンの規則)。

  • 結果が 00 である確率: P(0)=0ψ2=α2P(0) = |\langle 0 | \psi \rangle|^2 = |\alpha|^2
  • 結果が 11 である確率: P(1)=1ψ2=β2P(1) = |\langle 1 | \psi \rangle|^2 = |\beta|^2

正規化条件 α2+β2=1|\alpha|^2 + |\beta|^2 = 1 は、全確率が1になることに対応しています。

状態の収縮(State Collapse)

測定を行うと、量子状態は劇的に変化します。 測定結果が 00 だった場合、測定直後の状態は 0|0\rangle に変化(収縮)します。元の重ね合わせの情報(α,β\alpha, \beta の比率など)は、測定によって破壊され、失われます。

α0+β1測定: 00|\alpha|0\rangle + |\beta|1\rangle \xrightarrow{\text{測定: } 0} |0\rangle

これは、量子コンピュータが計算途中の膨大な情報を「のぞき見る」ことができないことを意味します。アルゴリズムの最後で、欲しい答えが高い確率で観測されるように、うまく確率振幅を操作(干渉)させる必要があるのです。

4. グローバル位相と相対位相

複素ベクトルにおいて、eiθe^{i\theta} (絶対値1の複素数)を掛けても、観測される確率は変わりません。

ψ=eiθψ|\psi'\rangle = e^{i\theta} |\psi\rangle P(0)=0ψ2=eiθα2=α2P(0) = |\langle 0 | \psi' \rangle|^2 = |e^{i\theta} \alpha|^2 = |\alpha|^2

このような全体にかかる位相係数を グローバル位相(Global Phase) と呼び、物理的には区別がつかないため、通常は無視します。

一方、係数の間の相対的な位相差は重要です。

ψ=12(0+eiϕ1)|\psi\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle + e^{i\phi}|1\rangle)

この 相対位相(Relative Phase) ϕ\phi は、確率には直接現れませんが、別の基底(例えば +|+\rangle 基底)で測定した場合の結果を変えるため、物理的に重要な意味を持ちます。

まとめ

  • 量子ビット: 2次元複素ベクトル空間の単位ベクトル ψ=α0+β1|\psi\rangle = \alpha|0\rangle + \beta|1\rangle
  • 確率振幅: 係数 α,β\alpha, \beta は複素数であり、その二乗が観測確率になる。
  • 測定: 観測すると状態は基底ベクトルのどれかに収縮する。
  • 情報量: 測定前は連続的な複素数のパラメータを持つが、取り出せる情報は1ビット分だけである。

次回は、この量子ビットを幾何学的に視覚化する「ブロッホ球」と、状態を操作する「量子ゲート」を行列として定義します。

次へ:量子コンピュータ入門 #3:ブロッホ球と量子ゲートのユニタリ性


参考資料


更新履歴

更新日 内容
2025-12-22 初版公開

ご注意: 本記事は2025年12月時点の情報に基づいています。最新情報は公式サイトをご確認ください。

この記事をシェア