前提知識: この記事は、線形代数と複素数の基礎知識を前提としています。不安な方は、先に 量子コンピュータ入門 #1:量子コンピュータのための数学基礎 をご一読ください。
「量子コンピュータは、0と1を同時に計算できるから速い」。 よく聞く説明ですが、これだけでは工学的な応用やアルゴリズムの理解には至りません。本シリーズでは、量子コンピュータを 「複素ベクトル空間上の情報の変換プロセス」 として厳密に定義し直します。
1. 情報をベクトルで表す
まず、古典的なコンピュータの最小単位である「ビット」を、線形代数の言葉で再定義してみましょう。
古典ビットのベクトル表現
古典ビットは または のいずれかの状態をとります。これを2次元ベクトル空間の基底ベクトルに対応させます。
古典的な計算機における「状態」は、この2つのベクトルの どちらか一方 に限られます。集合で書けば です。
量子ビット(Qubit)の定義
量子ビット(Quantum Bit = Qubit)は、この制約を取り払います。 量子ビットの状態 は、2次元複素ベクトル空間 上の、長さ(ノルム)が1の任意のベクトル として定義されます。
ここで、(複素数)であり、以下の正規化条件を満たします。
この を 確率振幅 と呼びます。 古典ビットが「北極点」と「南極点」の2点しか許されないのに対し、量子ビットは「地球の表面(球面)上のすべての点」を状態として取り得ます(ブロッホ球の概念。次回詳述します)。
2. 重ね合わせ状態の物理的意味
式 が表す「重ね合わせ(Superposition)」は、単なる「混合」とは異なります。
古典的な確率的ビットとの違い
コイン投げをして、まだ結果を見ていない状態を考えてみましょう。 表(0)が出る確率が50%、裏(1)が出る確率が50%だとします。この状態は確率分布として以下のように書けます。
しかし、量子的な重ね合わせ状態 はこれとは本質的に異なります。 最も重要な違いは、係数 が 複素数 であることです。
例えば、以下の2つの状態を考えます。
どちらも測定すれば0と1が50%ずつの確率で出ますが、状態としては別物 です(内積をとると直交します:)。 この「符号(位相)の情報」を持っていることが、量子アルゴリズムにおいて 干渉(Interference) という現象を引き起こし、計算の高速化に寄与します。
3. 測定(Measurement):ボルンの規則
量子力学において、状態ベクトル 自体を直接「見る」ことはできません。私たちができるのは「測定」だけです。
射影測定の公理
計算基底 で測定を行うと、結果は必ず か のどちらかになります。 その確率は 確率振幅の絶対値の二乗 で与えられます(ボルンの規則)。
- 結果が である確率:
- 結果が である確率:
正規化条件 は、全確率が1になることに対応しています。
状態の収縮(State Collapse)
測定を行うと、量子状態は劇的に変化します。 測定結果が だった場合、測定直後の状態は に変化(収縮)します。元の重ね合わせの情報( の比率など)は、測定によって破壊され、失われます。
これは、量子コンピュータが計算途中の膨大な情報を「のぞき見る」ことができないことを意味します。アルゴリズムの最後で、欲しい答えが高い確率で観測されるように、うまく確率振幅を操作(干渉)させる必要があるのです。
4. グローバル位相と相対位相
複素ベクトルにおいて、 (絶対値1の複素数)を掛けても、観測される確率は変わりません。
このような全体にかかる位相係数を グローバル位相(Global Phase) と呼び、物理的には区別がつかないため、通常は無視します。
一方、係数の間の相対的な位相差は重要です。
この 相対位相(Relative Phase) は、確率には直接現れませんが、別の基底(例えば 基底)で測定した場合の結果を変えるため、物理的に重要な意味を持ちます。
まとめ
- 量子ビット: 2次元複素ベクトル空間の単位ベクトル 。
- 確率振幅: 係数 は複素数であり、その二乗が観測確率になる。
- 測定: 観測すると状態は基底ベクトルのどれかに収縮する。
- 情報量: 測定前は連続的な複素数のパラメータを持つが、取り出せる情報は1ビット分だけである。
次回は、この量子ビットを幾何学的に視覚化する「ブロッホ球」と、状態を操作する「量子ゲート」を行列として定義します。
次へ:量子コンピュータ入門 #3:ブロッホ球と量子ゲートのユニタリ性
参考資料
- Nielsen, M. A., & Chuang, I. L. (2010). Quantum Computation and Quantum Information. Cambridge University Press.
- IBM Quantum Learning: https://learning.quantum.ibm.com/
- Google AI Quantum: https://quantumai.google/
更新履歴
| 更新日 | 内容 |
|---|---|
| 2025-12-22 | 初版公開 |
ご注意: 本記事は2025年12月時点の情報に基づいています。最新情報は公式サイトをご確認ください。
